グアム戦史概略

昭和19年7月21日晴天 時計が早朝4時半を過ぎる頃、アメリカ軍のグアム島奪回作戦が開始された。空には千の単位の航空機が乱舞し、海からは戦艦からの艦砲射撃。さらに海兵隊を乗せた数十隻の上陸用舟艇が海岸に迫りはじめた。アメリカ軍は艦船600隻、航空機2000機、兵員30万名(このうち55000名が上陸作戦に就く)。対する日本の守備隊は2万名であった。


7時半、西岸のアサン海岸、アガット海岸に上陸を開始したアメリカ軍は、オロテ半島北部にある日本軍の拠点に侵攻を開始。上陸が開始されてから3日後の7月24日にはアサン、アガットの海岸部はほぼアメリカ軍により占領された。



アサン海岸の日本司令部第三十一軍司令官の小幡中将はアメリカ軍の圧倒的な火力と兵力の前にグアム島の死守を断念、本土にある大本営に対して「我が身をもって、大平洋の防波堤とならん」と訣別電を送り、25日真夜中に海岸部に向けて総反撃「マンガン山攻防戦」を敢行。この最初の戦いですでに日本軍守備隊の8割近くが戦死し勝敗は決しました。アガット海岸の守備兵力3,000名の内、後退できた兵隊はたった110名に過ぎなかった。わずかに生き残った日本兵は北部へと後退を余儀なくされた。



その後も日本軍は抵抗を続け最後の守備隊が投降したのは、終戦から1ヵ月を経過してからとなった。日本軍守備隊2万名のうち、戦死者1万8千余名、アメリカ軍も約7000名の死傷者を出しグアムの戦いは幕を閉じた。

 



米軍からの強烈な攻撃で水煙が上がる。


迫り来る米軍上陸用舟艇。


進軍するアメリカ軍。
その兵力は圧倒的だった。


無惨に横たわる兵士の姿。



写真の出典/月刊沖縄社刊「グアムの戦い」より